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SEX, DRUG & FEMINISM
アーヴィン・ウェルシュ著『トレインスポッティング』

“あいつは押さえつけるのと殴るのは同じだ、暴力には違いないって言った。俺はその理屈に納得がいかない。おれはただ、引き留めたかっただけだ。話がしたかっただけだ。
レンツにこの話をしたら、キャロルの言うとおりだって意見だった。俺と一緒にいたいかどうか、キャロルには決める自由があるって言う。けど、それだってでたらめだろう。おれは話がしたかっただけなんだから。フランコは俺の味方だった。男と女ってのは理屈じゃない。俺たちはレンツにそう言ってやった”

引用元:アーヴィン・ウェルシュ著/池田真紀子訳『トレインスポッティング』

1993年にイギリスで出版されたアーヴィン・ウェルシュによる小説『トレインスポッティング』。1996年にダニー・ボイル監督によるこの小説を原作とした映画が公開。2017年には同監督による映画の続編も公開された。

『トレインスポッティング』と言えばまずはとにかくドラッグ。そして映画における素晴らしいキャスティングや90年代ブリット・ポップのグループが参加しているオリジナル・サウンドトラック。一般的に知られているイメージと言うとこんなところだろうか。

一般的にと言ってそのイメージが間違っているわけでもなく、実際に作中の登場人物達は基本的にドラッグを調達して摂取することに終始右往左往してばかりいる。
物語の舞台は1980年代後期イギリスのエディンバラで、20代中頃の薬物中毒者たちが中心の日常系ドラマだ。
日常系だけにドラマに大きな起伏はあまりないのだが、この作品の特徴として語りの構造がある。
映画では主観による語りは俳優ユアン・マクレガー演じる主人公のマーク・レントンのみだが、小説ではエピソードごとに語り手が変わる。
様々な語り手による複数の視点がキャラクターの人間性と関係性に奥行きを生み、一見他愛無いエピソードも常にどこか余韻を残すのだ。

小説は全7章を構成する43本のエピソードが連なりひとつの物語になっていて、映画はそのうちの10本程度のエピソードに映画オリジナルのエピソードを加え再構成したもの。
物語の大筋は小説と映画に違いはあまりなく、アンダーワールドの”Born Slippy”が流れる映画のラストシーンも内容自体は小説と変わらない(ちなみにこのシーンにあたる小説でのエピソードタイトルは”Station to Station”で、これはアーヴィン・ウェルシュが最も愛するレコードのタイトルでもある)。

小説と映画の脚本を比較してみると、映画前半までは登場人物の整理や時系列を入れ替えたりといった作劇上の演出はあれど、各エピソード内容は小説にほぼ忠実。
映画中盤の折り返しで、マーク・レントンが病院に担ぎ込まれ実家の自室で薬物禁断症状によってバッドトリップするシーンから最後のエピソードまでを映画は小説にはないオリジナルの展開を織り交ぜて進んでいく。

映画内容を俯瞰してみると、世間一般における『トレインスポッティング』のイメージというのは映画の薬物体験シーンの影響が大きいのだろう。それらのシーンが観客の目を引き強く印象に残るのはやはり事実だと思う。

しかし、薬物云々のあれこれをひとまず横に置いてみれば、絶望と希望でがんじがらめになった人間ドラマがひたすら繰り広げられているに過ぎないことがわかる。
例えば、他の映画でいうと『If もしも….』(’68/リンゼイ・アンダーソン監督)、『さらば青春の光』(’79/フランク・ロッダム監督)、『ウィズネイルと僕』(’87/ブルース・ロビンソン監督)といった作品と『トレインスポッティング』を並べてみたくなる。
または、昨今の欧米コメディ映画やネット配信コメディ・ドラマと並べてもしっくりくる。

『トレインスポッティング』は単にドラッグや音楽をファッションとして扱ったサブカル作品ではなく、普遍的な収まりの悪い人間愛に溢れた作品であって、その根底にあるのはあらゆる個人の尊厳に対するクリアな眼差しだ。
そして、それはそのまま著者アーヴィン・ウェルシュによる問題提起になっている。


#1 SEX

上記画像は映画『トレインスポッティング』の宣伝広告で、左から2人目の人物の名前はダイアン。
主要キャラクターである他の男4人と違って、小説では登場するエピソードは1つのみというキャラクターだ。
さらに、この画像内で彼女と直接の接点があるのは1人だけで、そう知って見るとこの並びのバランスは少し不思議に思える。

ダイアンはマーク・レントンがワンナイトラブを求めて訪れたクラブで出会う女性で、彼はダイアンをひと目見て彼女に特別な感情を覚える。
と、これだけなら普通のよくあるボーイ・ミーツ・ガールの展開を予想しそうになるが、『トレインスポッティング』ではそうならない。
この話が面白いのは終始ダイアンのペースで物事が進むところで、この2人の関係性において主導権を握っているのが男のレントンではなくダイアンなのだ。
レントンを見定め選んで同意をとりセックスの体位を指示し行為を終えた瞬間に去るよう命じるダイアンに対し、レントンはただ戸惑うのみ。なんとか男らしさを取り戻そうと妄想を試みるも、翌朝に衝撃の事実を知ってそれもあっさり砕け散る。
ダイアンは15歳ということがわかるのだ。
マーク・レントンは26歳。
重度のヘロイン中毒者が自分のした事に縮み上がる(イギリスにおける性交渉の法的同意年齢は16歳以上)。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(’19/クエンティン・タランティーノ監督)にもこれと似た状況になりえる場面があったが、こうした描写はただの配慮というものなどではなく、キャラクターと作品に奥行きを与えている。
このダイアンの場合にしても、宣伝広告からは添え物ヒロインと思われても不思議ではないけれど、実際はそうではなく、一見ありがちなエピソードが視点の位置が少し変わることで現実社会の歪さが浮かび上がるという、『トレインスポッティング』ならではのエピソードだ。

ところで、映画『トレイスポッティング』には仰向けのままマーク・レントンが床に沈み込んでいく有名なシーンがあるが、それと正反対のシーンがあるのがNetflixオリジナルドラマ『セックス・エデュケーション』で、シーズン1の最終エピソードで主人公が仰向けのまま文字通り天に昇っていく。
『セックス・エデュケーション』も『トレイスポッティング』と同じくイギリス作品で、こちらはドラッグではなくセックスをモチーフの中心に繰り広げられる青春群像劇だ。


#2 DRUG

『トレインスポッティング』はドラッグを通して社会の裏側を暴く、といった実録物のような作品ではない。アーヴィン・ウェルシュはドラッグを取り巻く人間模様を描くことで、今を生きる個人が抱える閉塞感や抑圧感といったものを映し出す。また、ドラッグに限らず、性暴力、性差別、人種差別や階級格差といったものから男の嫉妬…、といった社会では無いとされる様々なものを言語によって可視化する。

もし、ドラッグに纏わる社会的イメージを強く持ったままの頭でこの作品を捉えようとすると、こうした点が見えにくくなるかもしれない。
確かに、映画で登場人物がヘロインの摂取及びトリップする数々のシーンは怖いもの見たさの欲望を満たすのに良く出来た見世物になっていて、その点は素晴らしい。
そして、フランシス・ベーコンの絵画を色彩設計の参考にしたというヴィジュアル・イメージも独特の不穏な世界観を表現することに成功している。
それだけに、そういったある意味表面的な事象に隠れてしまって、原作の小説で描かれていることが見落とされがちのように思う。
宣伝のポップな展開と話題性が相まって、一括りにドラッグ関連の話、といった曖昧な作品像に留まっている原因のように思う。
しかし、漫画『スキップとローファー』のジャンキー版とでも言いたくなるくらいに、人間と人間の関係性が常に水平な目線で描かれているコメディドラマが『トレインスポッティング』なのだ。

あえて一括りにドラッグ関連ということで連想してみると、『仁義の墓場』(’75/深作欣二監督)のヘロインが増幅するドローン感と焦燥感を体現する渡哲也、芹明香、田中邦衛の不気味なまでの凄みが忘れられない。


#3 FEMINISM

“いったいどうして怒ってる? 「月のものの最中だから」という陳腐な答えが頭に浮かびかけたが、バーにあふれる笑い声に違和感を覚えて店内を見回した。それは、ただおかしくて笑ってる声ではなかった。
リンチに加担する暴徒の笑い声。
こんなこと、予想しろって言うほうが無理だーーー レントンは思った。わかってたらやらなかったよ”

引用元:アーヴィン・ウェルシュ著/池田真紀子訳『トレインスポッティング』

次の2つのツイートはアーヴィン・ウェルシュ本人のもの。

著書である『トレインスポッティング』やその続編『ポルノ』を読むと、この発言が特に突発的なものではないことがわかる。
そもそも、走ったり飛んだり沈み込んだりと何かと大忙しなイメージの主人公マーク・レントンだが、小説では性差別的な発言をする仲間を軽蔑し、時には諌めようとする人間なのだ。大抵、友人であるシック・ボーイの屁理屈にやりこめられるのだが。
また、別の仲間からはマスキュリニティお決まりの侮蔑表現として”男娼”呼ばわりをされたりしていて、もし男性によるホモソーシャルの為の教科書のようなものがあれば、その例文にぴったりのエピソードで満載だ。

映画ではこうした点の反映はレントンのキャラクター造形の雰囲気だけに留まり、具体的なエピソードとしては語られない。
その意味で映画続編の『T2』(’17/ダニー・ボイル監督)は正しく前作映画の延長線上にある作品と言える。
というのも、映画『T2』は小説『トレインスポッティング』の続編『ポルノ』が基本的なストーリーの骨子になってはいるのだが、前作映画にあったダイアンのようなエピソードはなくなっていて、映画としてはホモソーシャルの悲哀と黄昏といった感じの作品になっている。

現実ではホモソーシャルの網から抜け出すというのは到底不可能な事に思える、というのが個人的な今の正直な気持ちだ。
それだけに『トレインスポッティング』一作目のラストシーンは、ふいに清々しい気持ちを一瞬でも感じさせてくれるものだった。
一作目でホモソーシャルから抜け出ることに成功したレントンは、続編『ポルノ』でもやはり向こう側に抜け出るのだが、小説とは異なるラストシーンの映画『T2』におけるレントンに解放感はなく、もがいているように見えてしまった。

『トレインスポッティング』の主人公はそれまでのがんじがらめでいた世界から抜け出て外へ向かう。
映画『お嬢さん』(’16/パク・チャヌク監督)もアート的な背徳感とエンタメ的なサスペンス要素が同居した作品で、やはり主人公が新天地を目指す仄かに明るいエンディングで映画が終わる。こちらも小説を原作にしている作品だ。

“新聞紙の上にうんちをするのは大変だった。トイレはほんとせまくて、かがむのも一苦労だから。それにグラハムが何か怒鳴ってた。ゆるいうんちをどうにか少し取った。それを生クリームと混ぜてミキサーにかけ、できあかったものをチョコレート・ソースと合わせてソースパンで温める。その特製ソースをデザートのプロフィトロールにかけた。おいしそう。上出来だわ!”

引用元:アーヴィン・ウェルシュ著/池田真紀子訳『トレインスポッティング』
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『 Feeding Back 』David Todd 著

“ついでに言っておけば、ギターだけ持っていた訳ではない” 水谷孝

2012年発行。
“オルタナティヴ”なギタリストのインタビュー集。

何がどうオルタナティヴかと言えば、Lenny Kaye(初っ端登場でおお、となる)、James Williamson(The Stooges:Raw Power)、Tom Verlaine (こうしたインタビューに答えてるのは結構珍しいのでは)…という掲載ギタリストを見れば、ギターという楽器に特別深入りせずともある種の音楽好きには自然に伝わるものがあるのでは、と思う。

さらにMichael RotherとLee Ranald(ここでThurstonではないのがわかってると言うかたまたまなのか)、Richard ThompsonとJohnny Marr、という並びを見るだけで感じ入るものがあったりする。

本を開くと序章でまずRobert Quineについて語られる。The Stoogesから端を発しSonic Youthのようなバンドへと受け継がれていく連なりがあり、そのパイプラインの中心にいるのがRobert Quineなのだと。
広く深い視点で俯瞰して見た時に浮かび上がる系譜のような、音楽的影響下で相互関係にあるバンドやそのギタリスト達。
ジャンルではなく”オルタナティヴ”という言葉の意味のまま、それらにブラックライトを当てること。
これがこの本のキモというか、著者のコンセプトらしい。

J MascisやJohn Fruscianteといったそのままジャンルのオルタナティヴとして知られているギタリストも登場するが、この本がいわゆるロックギターヒーローを扱ったものとは違った個性的なものになっているのはそんなコンセプトによって編まれているからだろう。

また、この本の特筆すべきことのひとつがギタリスト栗原道夫のインタビューが掲載されていること。
主にBorisとDamon&Naomiのかけもち世界ツアーをしていた時期のインタビューになる。
この本とは別になるが、彼が過去に在籍していたWhite Heavenの1st LP再発元のインタビュー( https://www.blackeditionsgroup.com/michio-kurihara-interview )を併せて読むとより一層イメージが深まるのではないだろうか。

Rainbow – Live at the Starlite, Edmonton 2010 / BORIS with Michio Kurihara

Live Radio3, TVE2 / DAMON & NAOMI feat. MICHIO KURIHARA

AMAZON: https://www.amazon.co.jp/Feeding-Back-Conversations-Alternative-Guitarists/dp/161374059X